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父の誕生日 ①

last update 最終更新日: 2025-02-07 13:41:38

 ――わたしが彼と初めて出会ったのは、二年前の十月半ば。グループの本部・篠沢商事本社の大ホールで父の誕生日パーティーが開かれていた夜のことだった。

 父の家族として、母の加奈子(かなこ)とともに出席していたわたしは突然姿が見えなくなっていた父を探して会場内を歩き回っていた。やたら裾が広がってジャマになる桜色のミモレ丈のドレスに、歩きにくいハイヒールのパンプスでドレスアップして。

 父はその数日前から体調を崩し、体重もかなり落ちていたけれど、「自分の誕生祝いの場に出ないわけにはいかないだろう」と無理をおして出席していた。

「どこかで具合悪くなって、ひとりで倒れてたりしないかな……。なんか心配」

 一度立ち止まり、(あた)りをキョロキョロと見回したその時だった。貢がその会場にいることに気づいたのは。

 彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけが(わたしを除いて)ものすごく若かったから。着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだなじんでいない感じが見て取れたのだ。多分、入社してまだ五年と経っていないんじゃないかな、とわたしには推測できた。

 身長は百八十センチあるかないかくらい。スラリと()せているけれど、貧弱というわけでもなく、程よくガッシリとした体型。そして、顔立ちはなかなかに整っている。間違いなく〝イケメン〟のカテゴリーには入るだろう。何より、優しそうな目元にわたしは()かれた。

 それともう一つ、彼が周りの人たちに対してあまりにも腰が低かったから、というのもわたしが彼に注目した理由だった。この日招待されていたのはグループ企業の管理職以上の人たちばかりだったけれど、彼が役職(ポスト)()くには若すぎたし、そもそもウチのグループに二十代の管理職がいたなんて話、わたしは父から一度も聞かされたことがなかった。

「もしかしてあの人、誰か他の招待客の代理で来てるのかな……?」

 ――と、思いがけず彼とわたしの目線が合った気がした。

 あまりにもジロジロと(ぎょう)()しすぎていたかも、と少し気まずく思い、それをごまかそうとこちらから笑顔で()(しゃく)すると、彼も笑顔でお辞儀をしてくれた。

 ……なんて律儀(りちぎ)な人。こんな年下の小娘に丁寧に頭を下げるなんて。――彼に対するわたしの第一印象はこれで、気がついたら彼のことが気になって、彼から目が離せなくなっている自分がいた。

 この感情が〝恋〟なのだと気づいたのは、その翌日のことだったけれど……。だってわたしは、それまでに一度も恋をしたことがなかったから。

「――あっ、いけない! パパを探してる途中だったんだ!」

 わたしはハッと我に返り、彼のことをもっと見ていたいという誘惑を頭の中から追い払い、再び広い会場内を早歩きで移動し始めたのだけれど。その時、母が貢と何か話している光景がわたしの目に飛び込んできた。

 母は楽しそうに彼をからかっているように見え、それに対して彼は何だか恐縮している様子で、母にペコペコと頭を下げているようだった。

「ママ、あの人と一体、どんな話をしてるんだろう……?」

 二人の様子も少し気になったけれど、その時の優先順位は父を探すことの方が上だったので、その疑問はとりあえず頭の隅っこへと追いやっておくことにした。

「――あっ、いた! パパー!」

 その少し後、わたしはバーカウンターにもたれかかっている父の姿を見つけた。

「絢乃? どうしたんだ、そんなに血相かえて」

「どうしたんだ、じゃないでしょ? パパのことが心配だったの!」

 そう言いながらわたしがカウンターの上にチラッと目を遣れば、そこにはウィスキーの水割りが入ったグラスが。

「お酒……飲んでたの? ママに止められてるのに」

 (とが)めるわたしに、父は困ったような表情を浮かべてこう言った。

「心配するな。これでまだ一杯目だから。誕生日なんだから、これくらい許してくれよ、な? 頼むから」

 いい歳をしてダダっ子のような父に、わたしは思わず吹き出してしまった。これでオフィスにいる時には、堂々たるボスの風格を(たた)えていたのだ。そんな父のギャップを見られるのは、家族であるわたしと母だけの特権だったかもしれない。

「仕方ないなぁ……。じゃあ、その一杯だけでやめとこうね? ママもそれくらいなら許してくれると思うから」

「ああ、分かってる。すまないな。絢乃もいつの間にか、こんなに大人になってたんだなぁ」

「……パパ、わたしまだ高校二年生だよ?」

 どこか遠くを見るような目をして言った父に、わたしはそうツッコんだ。けれど、多分父が言いたかったのはそういうことじゃなかったのだ。

 父親にお説教ができるくらい、わたしが成長したと言いたかったのだと思う。

 ――わたしは初等部から、八王子(はちおうじ)市にある私立茗桜(めいおう)女子学院に通っていた。

 女子校に入ったのは両親の意向では決してなく、わたし自身の意思からだった。「制服が可愛いから」というのが、その理由である。

 父も母も、わたしの教育に関しては厳格(げんかく)でなく、どちらかといえば「お嬢さま(イコール)箱入り娘」という考え方こそ時代遅れだと思っていたようだ。わたしには世間一般の常識などもちゃんと知ったうえで、大人になってほしいという教育方針だったのだろう。

 その証拠に、両親はどんな時にもわたしの意思をキチンと尊重してくれて、わたしがやりたいと思ったことには何でもチャレンジさせてくれた。習いごとに関してもそれは同じで、父や母から強要されたことはなく、わたしが自分から「習いたい」と言ったことをさせてくれていた感じだった。

 だからわたしは、初等部の頃からずっと電車通学だったし、放課後には友だちとショッピングを楽しんだり、カフェでお茶したりといったことも禁止されなくて、のびのびと自由度の高い学校生活を送ることができたのだと、両親には今でも感謝している。

 ――それはさておき。

「あら、あなた。こんなところにいたのね。……まあ! お酒なんか飲んで! ダメって言ったでしょう⁉」

 父と二人で楽しく談笑していると、そこへ母がやってきて、父の飲酒に目くじらを立て始めた。「体調が悪いのに飲酒なんて何を考えているの」「心配している家族の気持ちも考えて」と、まるで母親に叱られる子供みたいに母から叱責されている父が、わたしはだんだんかわいそうになってきた。

「ママ、そんなに怒ったらパパがかわいそうだよ。今日はお誕生日なんだし、それくらいわたしに免じて大目に見てあげて!」

 自分も父の飲酒を咎めていたことなんか棚に上げて、わたしは父の味方についた。妻と娘、両方から集中砲火を浴びせられたら逃げ場を失ってしまうからだ。ましてや父は篠沢家の入り婿で、立場が弱かったから。

「ね? ママ、お願い!」

 手を合わせて懇願(こんがん)したわたしに、母はやれやれ、と肩をすくめて白旗を揚げた。父もそうだったけれど、母も何だかんだ言ってわたしにめっぽう甘いのだ。

「…………しょうがないわねぇ。ここは絢乃に免じて目をつぶってあげる。ただし、その一杯だけにしてね?」

「分かったよ。ありがとう、加奈子。君にも心配をかけて申し訳ない」

 父は許可してくれた母にお礼とお()びを言って、チビチビとクラスを(かたむ)けた。母はどうやら娘のわたしにだけでなく、夫である父にも甘かったらしい。

 ――結婚前、篠沢商事の営業部に勤めるイチ社員に過ぎなかった父は、当時の上司――営業部長の勧めで会長令嬢だった母とお見合いし、その日にすぐ共通の趣味であるジャズの話で意気投合したそうだ。そんな二人が結婚を決めるのに、それほど時間はかからなかったらしい。

 二人は結ばれるべくして結ばれたので、父は母のことを本当に愛していたと思う。娘のわたしが見た限りでは、夫婦仲もよかった。

 そして、父は一粒種(ひとつぶだね)だったわたしのことすごく大事に思ってくれていた。

 わたしも父のことが(もちろん、母のことも)大好きで、尊敬もしていたので、子供の頃から「わたしが父の後を継ぐんだ」と思うようになったのもごく自然なことだったのかもしれない。

 わたしたち親子三人は本当に、心から幸せだった。――あの夜から三ヶ月後までは。

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     ――「初恋は実らない」なんて、一体誰が言い出したんだろう? もし初めて恋に落ちた相手が運命の人なら、百パーセント実らないとは限らないのに。 実際、わたしがそうだった。生まれて初めて恋をした相手が運命の人になったのだ。 わたしの名前は篠沢(しのざわ)絢(あや)乃(の)。現在まだ十九歳という若さながら、日本屈指の大財閥〈篠沢グループ〉の会長兼CEOである。 そして、わたしが初めて恋に落ちた相手は桐島(きりしま)貢(みつぐ)。わたしより八歳年上で、会長秘書兼わたしの個人秘書でもある男性だ。 彼との出会いは今から二十ヶ月前。先代会長だった父・篠沢源一(げんいち)の四十五歳の誕生日だった。 わたしと彼との間には年齢差や経済格差、身分の差など様々な障壁があったけれど、それらを乗り越えて無事に結ばれた。わたしの初恋は見事に実ったのだ。 わたしは今、彼が初恋の相手で本当によかったと心から思っている。彼と一緒でなければ、父を早くに亡くした悲しみを乗り越えることも、現役高校生として大きな組織の舵(かじ)取りをすることもできなかっただろうから。 そして今日この日、わたしは愛しいこの男性(ひと)と新たな旅立ちの時を迎えようとしている――。  ――ここは結婚式場。わたしはベアトップのデザインの真っ白なウェディングドレスに身を包んで、白いタキシードの上下にブルーのアスコットタイを結んだ彼と、花嫁の控え室で向き合っている。「貢、わたしたち、やっとここまで辿り着いたね」「ええ。今日までに色々なことがありましたけど、今日という日を無事に迎えられてよかったです」「ホントに色んなことがあったね。わたしがストーカー男と対決したり、その前に貴方に不意討ちでキスされたり?」「あれは……その、暴走してしまったというか。すみません。でも、あのおかげもあって僕たち、付き合い始められたようなものですから」「うん……まぁね」 思い出話は尽きないけれど、わたしたちにとっていちばん忘れられない出来事はやっぱり父を亡くしたことだ。あの悲しい出来事をこの人と共有できたおかげで、わたしはあれから泣くことがなくなったのだ。「そういえば絢乃さん、お義父(とう)さまのご葬儀の後、泣かれなくなりましたよね。強くなられたというか」「それは、貴方っていう心強い秘書がついてくれたからだよ。まあ、忙しすぎて

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     高級住宅街の一角に建つ篠沢邸は、第二次大戦後に建てられた白壁の大邸宅だ。庭こそないものの、立派な門構えとリムジンが三~四台は駐車できるカーポートが家の立派さを物語っている。 洋館だけれど玄関でスリッパに履き替える日本式の生活スタイルなので、わたしはスリッパの音をフローリングの床に響かせながらリビングへ飛び込んだ。「――ただいま」「お帰りなさい、絢乃。桐島くんは?」 先に帰宅していた母は、部屋着姿で出迎えてくれた。「もう帰っちゃった。ウチでお茶でも、って引き留めたんだけど」 落胆して答えたわたしを、母は優しく慰めてくれた。「そうなの。彼は優しいから、絢乃が疲れてるだろうからって遠慮したのかもしれないわね」「うん、そうみたい。でも連絡先は交換してもらえたから」 そして、出迎えてくれたのは母だけではなくもう一人。「お帰りなさいませ、お嬢さま。奥さまから伺いました。本日は大変でございましたねぇ」「ただいま、史子(ふみこ)さん」 彼女は住み込み家政婦の安田(やすだ)史子さん。当時は五十代半ばくらいで、家事一切を任されていて、すごく働き者だ。もちろん今も篠沢家で働いてくれている。「ママ、これからパパの説得に付き合ってくれる?」「えっ? いいけど……あなたも疲れてるでしょう? 少し休んでからでもいいんじゃないの?」「ううん、わたしなら大丈夫だから。行こう」 この時のわたしを突き動かしていたのは責任感だったのか、父への思い遣りだったのかは今でも分からない。母もわたしから強い意志を感じたらしく、快く父のところへついてきてくれた。 検査を受けるよう母とわたしから勧められた父は、案の定顔を曇らせた。不機嫌になるほどではなかったけれど、あまりいい反応ともいえなかった。「パパ、お願い。わたしもママも、検査を勧めてくれたその人だってパパの体が心配なんだよ? だからその気持ちは分かってほしいの。パパだって病気が早く分った方が安心でしょ?」 渋っていた父に、わたしはとどめの一押しをした。母とわたしの顔を見比べた父はとうとう降参した。「…………分かった、私の負けだよ。絢乃の言うとおりだな。明日にでも検査を受けてこよう。加奈子、私の携帯で後藤(ごとう)に連絡を取ってみてくれ」「ええ」 母は父に言われたとおり、父のスマホで電話をかけた。当時、大学病院の内科

  • トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~   初めての恋と大きな覚悟 ①

     わたしには、彼が少し照れているようにも見えた。ハンドルを握る彼の横顔が月明かりに照らされて、思わずウットリと見とれてしまう。……どうしてわたし、彼のことがこんなに気になるんだろう? ――その後の会話は、彼の家族の話題に移っていった。 桐島家のお父さまは大手メガバンクの支店長さん、お母さまは若い頃保育士さんだったそうだ。貢には四歳上のお兄さまもいて、調理師として飲食店で働いていると聞いた。将来的には自分でお店をオープンさせたいのだとか。「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」 彼は明らかに、この質問への答えをはぐらかしていて、わたしはちょっと不満だった。「そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」「……えっ? うん……別にいいけど」「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」 つまり、父が亡くなった後ということだろう。娘であるわたしに気を遣って遠回しな表現をしてくれたのだと、わたしはすぐに気がついた。「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に携(たずさ)わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」 ちなみに母も一人娘だったので、父が婿入りすることになったのだ。「お母さまは確か、以前教員をされていたんですよね。中学校の英語の」「うん、そうなの。だから元々経営に興味がなかったみたい。祖父が会長を引退した時も、自分は後継を辞退してパパに譲ったみたいだし。まぁ、ウチの当主ではあるんだけど」 その祖父も、今から五年前にこの世を去った。前年に心臓発作で他界した祖母の後を追うようにして。祖母が亡くなってから、祖父の体調が悪くなったことをわたしもよく憶えていた。「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また揉(も)めることにならなきゃいいんだけど」 わたしは遠からず起きるであろうお家騒動を想像して、ウンザリとドレスの上に着ていた白いジャケットの襟(えり)をいじりながらため息をついた。「名門一族って、どこも大変なんですね……」「うん……、ホントに」 彼の素直なコメントに、わたしも頷いた。 篠沢

  • トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~   父の誕生日 ③

    「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」「はい?」「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」 あまりにも重々しい事実を突きつけられ、わたしはガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。でも、彼が父のためを思って言ってくれていることもちゃんと分かっていた。「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」 わたしは二つめのケーキを食べる手を止めて、眉根にシワを寄せた。 父は昔から大の病院嫌いで、少し体調を崩したくらいでは病院に行こうとせず、いつも「これくらい、家で静養すればよくなる」とワガママを言っていた。けれど、さすがに命が脅かされるような大病の可能性がある以上、父には是が非でも検査を受けてもらわなければと思った。「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」 彼は照れくさそうに謙遜したけれど、わたしは彼に本当に感謝していた。自分の身内のことを言うなら誰にでもできるけど、お世話になっている勤め先の上役とはいえ赤の他人のことを心配してそういうアドバイスができる人はそうそういないと思ったから。     * * * * ――貢と二人、美味しいケーキを味わいながら楽しくおしゃべりをしていると、あっという間に三十分ほどが過ぎていた。 母に送信したLINEに返信があったのはそんな時だった。〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。 あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉 返信はこれだけかと思ったら、ピコンと次のフキダシが出てきた。〈あと、あなたの帰る手段として、総務課の桐島くんに家まで送ってもらうようお願いしておきました♡ 彼にもよろしく言っておいてね♪〉「…………えっ⁉」 驚いて、思わずスマホの画面を二度見した。と同時に、貢と母が何を楽しげに話していたのかが分かった気がした。「絢乃さん、どうかされました?」「ううん、別にっ!」 わたしはブンブンと彼

  • トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~   父の誕生日 ②

     父が倒れたのは、それからすぐ後のことだった。突然ひどい目眩(めまい)に襲われ、立ち上がれなくなってしまったのだ。 わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。「〝大丈夫〟なわけないでしょ⁉ 顔色だって悪いのに」 わたしはそんな父を𠮟りつけた。父の体調がすぐれないのは誰が見ても明らかで、もうパーティーどころではないだろうとわたしも思った。というか、最初から無理をして出るべきではなかったのだ。「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶわ」「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」 母は家で待機していたわが家の専属運転手に電話をかけて迎えを頼むと、わたしにも頼みごとをした。父が途中でいなくなると、会場にいる人たちが混乱すると思う。だから父の代理として会場に残り、頃合いを見て閉会の挨拶をしてほしい、と。「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」 わたしは母の頼みごとを二つ返事で快諾(かいだく)した。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹を括(くく)った。 ――それから十数分後に運転手の寺(てら)田(だ)さんが到着し、母とともに父の体を支えて会場を後にした。多分、彼が運転してきた黒塗りのセンチュリーはビルの地下駐車場に止めてあったのだろう。「お嬢さまは一緒に帰らないのか」と彼が不思議そうに訊ねたので、母から頼まれたことを話すと納得してくれた。 その五分後にセンチュリーが夜の丸ノ内(まるのうち)の街に紛れていくのを、わたしはホールのガラス窓越しに眺めていた。 その後はやっぱり、父の具合を心配する人たちが押しかけてきて、わたしはその対応に追われた。それも落ち着いた頃、わたしはようやく自分がいたテーブルに戻ろうとしたのだけれど……。父が倒れたショックからか、対応疲れからか軽い目眩を起こしてしまった。「――絢乃さん、大丈夫ですか⁉」 倒れそうになったわたしを支えてくれたのは、慌てて飛んできた貢だった。――あ、この人はさっきの……。わたしの名前を知っていたことは不思議だったけれど、彼が助けてくれたのが偶然

  • トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~   父の誕生日 ①

     ――わたしが彼と初めて出会ったのは、二年前の十月半ば。グループの本部・篠沢商事本社の大ホールで父の誕生日パーティーが開かれていた夜のことだった。 父の家族として、母の加奈子(かなこ)とともに出席していたわたしは突然姿が見えなくなっていた父を探して会場内を歩き回っていた。やたら裾が広がってジャマになる桜色のミモレ丈のドレスに、歩きにくいハイヒールのパンプスでドレスアップして。 父はその数日前から体調を崩し、体重もかなり落ちていたけれど、「自分の誕生祝いの場に出ないわけにはいかないだろう」と無理をおして出席していた。「どこかで具合悪くなって、ひとりで倒れてたりしないかな……。なんか心配」 一度立ち止まり、辺(あた)りをキョロキョロと見回したその時だった。貢がその会場にいることに気づいたのは。 彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけが(わたしを除いて)ものすごく若かったから。着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだなじんでいない感じが見て取れたのだ。多分、入社してまだ五年と経っていないんじゃないかな、とわたしには推測できた。 身長は百八十センチあるかないかくらい。スラリと痩(や)せているけれど、貧弱というわけでもなく、程よくガッシリとした体型。そして、顔立ちはなかなかに整っている。間違いなく〝イケメン〟のカテゴリーには入るだろう。何より、優しそうな目元にわたしは惹(ひ)かれた。 それともう一つ、彼が周りの人たちに対してあまりにも腰が低かったから、というのもわたしが彼に注目した理由だった。この日招待されていたのはグループ企業の管理職以上の人たちばかりだったけれど、彼が役職(ポスト)に就(つ)くには若すぎたし、そもそもウチのグループに二十代の管理職がいたなんて話、わたしは父から一度も聞かされたことがなかった。「もしかしてあの人、誰か他の招待客の代理で来てるのかな……?」 ――と、思いがけず彼とわたしの目線が合った気がした。 あまりにもジロジロと凝(ぎょう)視(し)しすぎていたかも、と少し気まずく思い、それをごまかそうとこちらから笑顔で会(え)釈(しゃく)すると、彼も笑顔でお辞儀をしてくれた。 ……なんて律儀(りちぎ)な人。こんな年下の小娘に丁寧に頭を下げるなんて。――彼に対するわたしの第一印象はこれで、気がついたら彼のことが気

  • トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~   プロローグ

     ――「初恋は実らない」なんて、一体誰が言い出したんだろう? もし初めて恋に落ちた相手が運命の人なら、百パーセント実らないとは限らないのに。 実際、わたしがそうだった。生まれて初めて恋をした相手が運命の人になったのだ。 わたしの名前は篠沢(しのざわ)絢(あや)乃(の)。現在まだ十九歳という若さながら、日本屈指の大財閥〈篠沢グループ〉の会長兼CEOである。 そして、わたしが初めて恋に落ちた相手は桐島(きりしま)貢(みつぐ)。わたしより八歳年上で、会長秘書兼わたしの個人秘書でもある男性だ。 彼との出会いは今から二十ヶ月前。先代会長だった父・篠沢源一(げんいち)の四十五歳の誕生日だった。 わたしと彼との間には年齢差や経済格差、身分の差など様々な障壁があったけれど、それらを乗り越えて無事に結ばれた。わたしの初恋は見事に実ったのだ。 わたしは今、彼が初恋の相手で本当によかったと心から思っている。彼と一緒でなければ、父を早くに亡くした悲しみを乗り越えることも、現役高校生として大きな組織の舵(かじ)取りをすることもできなかっただろうから。 そして今日この日、わたしは愛しいこの男性(ひと)と新たな旅立ちの時を迎えようとしている――。  ――ここは結婚式場。わたしはベアトップのデザインの真っ白なウェディングドレスに身を包んで、白いタキシードの上下にブルーのアスコットタイを結んだ彼と、花嫁の控え室で向き合っている。「貢、わたしたち、やっとここまで辿り着いたね」「ええ。今日までに色々なことがありましたけど、今日という日を無事に迎えられてよかったです」「ホントに色んなことがあったね。わたしがストーカー男と対決したり、その前に貴方に不意討ちでキスされたり?」「あれは……その、暴走してしまったというか。すみません。でも、あのおかげもあって僕たち、付き合い始められたようなものですから」「うん……まぁね」 思い出話は尽きないけれど、わたしたちにとっていちばん忘れられない出来事はやっぱり父を亡くしたことだ。あの悲しい出来事をこの人と共有できたおかげで、わたしはあれから泣くことがなくなったのだ。「そういえば絢乃さん、お義父(とう)さまのご葬儀の後、泣かれなくなりましたよね。強くなられたというか」「それは、貴方っていう心強い秘書がついてくれたからだよ。まあ、忙しすぎて

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